
映画や小説で大きな話題を呼んだ『ロストケア』。 42人もの高齢者を殺害した「心優しい殺人犯」斯波(しば)と、法の下に彼を裁こうとする検事・大友の対峙を描いた社会派サスペンスです。
この作品を観終わったあと、胸の奥に言葉にできないモヤモヤが残りませんでしたか? そして、大きな声では言えないけれど、こう思ってしまった人も少なくないはずです。
「犯人の気持ちが、ちょっとわかる……」
今回は、なぜ私たちが殺人犯である斯波に不覚にも共感してしまうのか。作品が描く「介護のリアル」と、誰もが当事者になり得る現代日本の闇について、私なりの感想を交えながら考えていきます。
『ロストケア』のあらすじと「42人殺害」の背景
まずは本作の背景を簡単に振り返ります。
ある民家で高齢者と訪問介護センターの所長が遺体で発見されるところから物語は始まります。捜査線上に浮かび上がったのは、介護センターで働く斯波宗典。彼は周囲からも慕われる、非常に献感的で心優しい介護士でした。
しかし、彼には「42人の高齢者を殺害した」という恐るべき裏の顔があったのです。
斯波はその殺人を「犯罪」ではなく、介護の苦しみから家族を解放する「救い(ロストケア)」だと主張します。
なぜ「ちょっと気持ちがわかる」と思ってしまうのか?
殺人という行為は、決して許されるものではありません。それは大前提です。 それでもなお、私たちが斯波の言葉に拒絶反応だけを起こせないのは、彼が直面した「介護の限界」があまりにもリアルだからです。
「気持ちがわかる」と感じてしまう理由は、大きく分けて3つあります。
1. 「安全地帯」からしか綺麗事を言えない現実
劇中、正義を貫こうとする検事の大友に対し、斯波は「あなたは安全地帯にいるからそんなことが言えるんだ」というニュアンスの言葉をぶつけます。
- 毎日続く排泄の処理
- 夜中の介護による睡眠不足
- 終わりが見えない精神的・経済的負担
これらを経験した人にしかわからない絶望があります。「家族なんだから最後まで面倒を見るべき」という正論が、どれほど当事者を追い詰めるか。斯波の言葉は、綺麗事では片付けられない介護の泥沼を代弁していました。
2. 「明日は我が身」という恐怖
明日の生活費すら危うい「経済的困窮」と、頼れる人が誰もいない「社会的孤立」。 作中で描かれるケースは、決してフィクションの中だけの特異な事例ではありません。
日本のどこかで今日も起きているかもしれない、そして「いつか自分や自分の家族の身に降りかかるかもしれない」というリアルな恐怖があるからこそ、斯波の極端な救済策に一瞬心が揺らいでしまうのです。
3. 「尊厳」とは何かという問い
「生きてさえいれば幸せなのか?」という問いも、この作品の大きなテーマです。 意識が朦朧とし、家族の負担になり続けていることを、もし本人が知ったらどう思うのか。 「生かすこと」が本当に正解なのか分からなくなる瞬間、斯波のような存在が「救世主」に見えてしまう心理は、人間の弱い部分として否定しきれないものがあります。
斯波の「救い」は本当に救いだったのか
「私がしたのは殺人ではなく、救いです」
斯波のこの言葉は、一見すると介護に苦しむ人々を救うダークヒーローのようにも思えます。 しかし、物語が進むにつれて、彼の手法もまた「独善的(自己満足)」であるという側面が見えてきます。
残された家族の中には、苦しみから解放されてホッとした人もいれば、「もっと一緒にいたかった」と絶望する人もいました。いくら綺麗に包み込んでも、他人が命の終わりを勝手に決めることは、やはり狂気でしかありません。
だからこそ、私たちは「気持ちはわかる、だけど……」という、答えのないループに陥ってしまうのです。
まとめ:『ロストケア』が私たちに本当に伝えたかったこと
『ロストケア』という作品は、単なる犯人探しのミステリーではありません。 「犯人の気持ちがちょっとわかる」と感じた自分に罪悪感を抱く必要はないと思います。むしろ、そう思わせることこそが、この作品の仕掛けた「社会への警告」だからです。
- 自己責任という言葉で家族を追い詰める社会の仕組み
- 制度の手が届かない福祉の隙間
これらに目を向けない限り、第二、第三の斯波が生まれてもおかしくありません。
映画を観終わったあと、「悲しい映画だった」で終わらせるのではなく、大切な人と「もし我が家だったらどうする?」と少しだけ話してみる。それこそが、この重厚な作品から私たちが受け取るべきメッセージなのではないでしょうか。